檜原神社のほぼ真西にある前方後円墳、箸墓古墳があり、「倭の女王・卑弥呼」の墓ではないかと言われています。
大神神社の脇道から道なりに歩いて20~30分ぐらいのところに檜原神社があります。
かねてから行きたい、行きたいと思っていた檜原神社に行きました。と言っても、最近ではなく数年前の話です。
その時の感情を思い出して書いてみました。
目次
気を感じる!?檜原神社(ひばらじんじゃ)とは?

私が、檜原神社に行ったときは時間外だったのか参拝に訪れる人が誰もいなくて私一人でした。怖ろしいほど周りは静かで、2本の柱にしめ縄を渡しただけの鳥居(注連縄柱というそうです)を見ていると、古代の世界を垣間見たような錯覚に陥りました。
誰もいないせいか静寂の中で歴史と神聖な空気を感じました。
檜原神社は、崇神天皇の御代、皇居内の祀られていた天照皇大神の御神霊を崇神天皇の皇女、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託し、倭の笠縫の邑に遷し祀られます。
宮中から遷された最初の地は「倭の笠縫の邑」と記されていますが、「倭の笠縫の邑」として推測されるいくつかの候補地の中で一番有力視されているのが、ここ檜原神社です。

天照皇大神の御神霊はその後90年ほど諸処を転々とし、垂仁天皇26年(657年)、最後に伊勢の五十鈴川の上流にて御鎮まりになられ、これが伊勢神宮の創祀と云われています。
三ツ鳥居(三輪鳥居)

「三つ鳥居」は一般的な鳥居とは大きく異なり、三本の鳥居を組み合わせた、他では見られない独特の形をした造りです。
神殿も拝殿もなく、この鳥居を通して三輪山を拝するという、古代の祈りの場がそこにはあります。
鳥居から先は神様の領域。本来、人が足を踏み入れるべき場所ではないと思われます。「三つ鳥居」の前に立つと、心が鎮まり、その奥の三輪山自体が荘厳な神殿と化しているようです。
檜原神社は小さな神社ですが、玉砂利がきれいに掃き清められていて、凛とした空気を感じます。
大神神社の摂社のため、2本の柱に大きな注連縄を渡した鳥居の形も同じですし、三輪山前の拝殿にあるという「三ツ鳥居」が見られるのも共通しています(大神神社のものは一般には見られません)。
大神神社もそうであるように三輪山全体が神様なのですね。
豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)


三ツ鳥居の左手に、豊鍬入姫命を祀る「豊鍬入姫宮」があります。
豊鍬入姫命は、崇神天皇の皇女であり、初代の斎宮である。王宮を出た天照大神は豊鍬入姫を御杖代として、吉備国・丹波国・紀国などを巡行されました。
次に垂仁天皇の皇女で倭姫命を二代目の御杖代として各地を巡幸し最終的に伊勢の五十鈴川の地に鎮まったとされています。
(元伊勢)檜原神社と豊鍬入姫宮の御由緒

神社の由緒書には次のように記載されています。
大神神社の摂社「檜原神社」は、天照大御神を、末社の「豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)」(向かって左の建物)は崇神天皇の皇女、豊鍬入姫命をお祀りしています。
第10代崇神天皇の御代、皇祖である天照大御神は宮中にて「同床共殿(どうしょうきょうでん)」に祀られていました。
同天皇の六年初めて皇女、豊鍬入姫命(初代の斎王)に託され宮中を離れ、この「倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)」に「磯城神籬(しきひもろぎ)」を立ててお祀りされました。
その神蹟は実にこの檜原の地であり、大御神の伊勢御遷幸ののちもその御蹟を尊崇し、檜原神社として大御神を引続きお祀りしてきました。そのことより、この地を今に「元伊勢」と呼んでいます。
檜原神社はまた日原社とも称し、古来社頭の規模などは本社である大神神社に同じく、三ツ鳥居を有していることが室町時代以来の古図に明らかであります。
萬葉集には「三輪の桧原」とうたわれ山の辺の道の歌枕となり、西につづく桧原台地は大和国中を一望できる景勝の地であり、麓の茅原・芝には「笠縫」の古称が残っています。
また「茅原(ちはら)」は、日本書紀崇神天皇七年条の「神浅茅原(かむあさぢはら)」の地とされています。更に西方の箸中には、豊鍬入姫命の御陵と伝える「ホケノ山古墳(内行花文鏡出土・社蔵)」があります
檜原神社由緒
檜原神社 太陽の道

画像引用:日本産経新聞
卑弥呼の墓説もある箸墓古墳、檜原(ひばら)神社、大坂山(穴峠)長谷寺、室生寺をはじめ、大和盆地を中心とする著名な遺跡、社寺などが北緯34度32分の線上にほぼ一直線に並び、東は三重県の伊勢斎宮跡、西は堺市の大鳥大社(さらに淡路島の遺跡や古社)まで延びるという。
この「一直線」は「ほぼ一直線」であり、南北にずれる遺跡もあるのだが、記紀神話などとの奇妙な暗合が「太陽の道」説に説得力を与えた。
まず檜原神社と伊勢斎宮跡の関係。この2つはほとんどずれなく同じ緯度にあり、天照大神(日の神=太陽神といわれる)でつながっている。
長らく宮中にまつられていた天照大神は、第10代崇神天皇の時代に初めて宮中を離れ、皇女トヨスキイリヒメノミコト(初代の斎王)に託され大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に移される。笠縫邑の有力な伝承地が檜原神社だ。次の第11代垂仁天皇は皇女ヤマトヒメノミコトに天照大神を託す。ヤマトヒメは大神が鎮まる場所を求め長い旅に出て、大和の笠縫邑から伊勢にたどりつく。それで檜原神社は「元伊勢」と呼ばれる。
引用:【日本経済新聞】
檜原神社の御祭神
御祭神:天照大御神(あまてらすおおみかみ)、 伊弉諾尊(イザナギノミコト)、 伊弉册尊(イザナミノミコト)
崇神天皇紀によれば、崇神天皇の御代、宮中よりはじめて、天照大御神を豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託されてお遷しになり、「磯城神籬(しきひもろぎ)」を立て、お祀りされた「倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)」であります。
崇神天皇が皇女豊鍬入姫命に命じて宮中に祭られていた天照大神を大和国の笠縫邑に祭らせたとあり、これが斎王(斎宮)の始まりともされ、豊鍬入姫命は初代斎王とされています。
大御神のご遷幸の後も、その御蹟を尊崇し、檜原神社として、引き続きお祀りし、「元伊勢(もといせ)」と今に伝えられています。
境内には、昭和61年11月5日、豊鍬入姫命を祀る豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)が鎮斎されました。
万葉集等に「三輪の檜原」と数多く詠まれ、山の辺の道の歌枕ともなり、西につづく檜原台地は、大和国中を一望する絶好の地であります。
[nlink url=”https://jinjyameguria.com/hyougoken/izanagijinjya/”]檜原神社へのアクセス
秘密の聖地と言わんばかりに三輪山の麓にひっそりと鎮座する檜原神社ですが、春分・秋分の日前後には多くのカメラマンで賑わいます。カメラマンのお目当ては檜原神社という訳ではなく、檜原神社の入り口にある鳥居正面から見える、二上山の雄岳と雌岳の間に沈む夕日だそうです。
所在地 | 〒633-0001 桜井市三輪1422 |
TEL | 0744-42-6633 |
拝観時間 | 9:00~17:00 |
休日 | なし |
交通アクセス | 最寄り駅からの交通 JR 三輪駅 徒歩30分 |
駐車場 | なし |
地図 |
追記:真西に「二上山」が見えます

檜原神社からは、古来から大和の国人々から聖なる山として崇められた「二上山(ふたかみやま:にじょうざん)」の姿が遠くに見えます。
檜原神社からはほぼ真西の方角にあたり、春分・秋分の日の頃には、二上山の雄岳と雌岳の間に夕陽が沈むため、神聖視されてきました。
右側の雄岳の山頂部の一角には大津皇子の陵墓があります。
大津皇子は天武天皇の皇子でしたが、容姿が良く、頭も良く、人望もあり、血筋も良く、最高の次期天皇候補者であったので謀反の罪を着せられ、二十四歳で自害を賜りました。
これは、天武天皇が崩御された後、持統天皇が我が息子の草壁皇子を後継ぎにしたいために、仕組んだ陰謀だと言われています。
皇子の死を悼んで、実姉の大伯皇女が歌った
うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を
弟背(いろせ)と我(あ)が見む
という有名な歌が万葉集にのこっています。
二上山は雄岳が標高517m、雌岳は474mの山です。その雄岳山頂部の一角に悲劇の皇子「大津皇子」の陵墓があります。
大津皇子に興味がある方は二上山に登って陵墓をご覧になられてはいかがでしょうか。

二上山にある大津皇子の陵墓